「いわきアリオスホール所有の16f付きチェンバロについて」
梅岡俊彦(調律師)
今回は皆様に日本のホール所有のチェンバロとしては唯一のヒストリカルタイプの16f付きチェンバロに触れる機会がありましたのでご紹介させていただきます。
今回ご紹介するチェンバロは、福島県いわき市に2008年にオープンした「いわき芸術文化交流館アリオス(略称いわきアリオス)」がコンサート用に所有する2台のチェンバロのうちの1台でして、日本でもここだけが所有するというユニークなヒストリカルタイプの16f付き大型2段鍵盤のジャーマンタイプのチェンバロであります。
「いわきアリオス所有の楽器明細」
製作者 Matthias KRAMER (ドイツ) 2008年作
仕様明細 2段鍵盤ジャーマンタイプ ツェル/ハスモデル (Zell /Hass 1754)
16×8×8×4f FF~f3 ピッチ2段階可変(A=415/440) バフストップ付き
外装 2色の装飾模様入り 鍵盤の部分にツェルオリジナルにある木組み細工 フタ に風景画の装飾 スタンドはツェルタイプ縁有りの8本足
本体 280×96×30cm
本体重量 73kg スタンド 17kg

(いわきアリオスのロビーコンサートでのMatthias KRAMER作 16f付きチェンバロ)
ヒストリカルの16f付きチェンバロと言いますと、まずブリュッセルの楽器博物館所有の有名なHass(1734年製)を思い出しますが、製作家のMatthias KRAMER氏によると、この楽器は北ドイツの有名なチェンバロ製作家であるHassとZellの両方の設計を元に作られたモデルとの事でして、現在ハンブルク装飾工芸美術館の楽器コーナーに展示されているチェンバロのフタ(Zellの16f付き大型チェンバロのフタと推測されている?)も参考にしているとの事でした。

(ハンブルク装飾工芸美術館に展示されているフタ 本体は紛失)
「16f付きチェンバロの歴史」
16f付きチェンバロと言いますと、18世紀のオリジナル楽器としてはブリュッセルの楽器博物館所蔵の1734年作のHassや、ラファエル・プヤーナ(残念ながら今年3月に逝去)所有の1740年作の3段鍵盤のHaasなどが有名でしょうか。また現在ベルリン楽器博物館所有の有名な「バッハチェンバロ」(チューリンゲンのハラス作?)も今や弦を外されて演奏不能な状態ですが16fの機能が装備されております。この16fがオリジナルでは無く後世の改造によるものだという説もあり、また本当にバッハ所有の楽器だったとは断定されておりません。最近この楽器が再注目されてきているようですので、今後さらにこの興味深い楽器についての研究が進む事を期待しております。バッハの時代に16fが使われていたのかどうかという事はバッハの作品演奏において大変重要な要素ではと個人的には考えております。
20世紀初頭のヨーロッパでランドフスカ女史を中心とした近代チェンバロ復興運動が起こりますと、オリジナルのチェンバロから現代的に大胆に設計をアレンジされた「モダンチェンバロ」を使った演奏が主流となりました。
ただし19世紀後半に起こりました第1次チェンバロ復興運動では比較的ヒストリカルチェンバロの設計に忠実な復元楽器が作り出されていた事は忘れてはいけないでしょう。古楽復興運動の主導者たるアーノルド・ドルメッチの作品も(最近ネットで1910年代の彼の製作したチェンバロが売買されているのには驚きます)ペダルこそ付いていますがヒストリカルの設計に近いようであります。
ランドフスカ女史がプレイエル社に製作させたモダンチェンバロは皆16fが付いておりましたし、その後多数のメーカーで製作されたモダンチェンバロも16fを常備するようになりました。20世紀初頭のチェンバロ復興においてかの「バッハチェンバロ」の影響がいかに大きかったかという事はまた改めて検証すべきテーマかと思います。
モダンチェンバロ全盛の中で20世紀半ばにヒストリカルチェンバロの復興の運動が欧米で起こります。日本では1950年代中盤のドイツのスコブロネック氏の活動が有名ですがアメリカのハバードとダウド両氏が1949年にヒストリカルチェンバロを製作したという記録がありますのでそちらの方が活動は早いようですね。ただスコブロネック氏の第1号の作品が モダンチェンバロのスタイルながら16f付きのかのバッハチェンバロのコピーなのは大変興味深い事実であります。(現在ベルリン楽器博物館所有 1953/4年作)
ヒストリカルチェンバロの復興運動が盛んになりますと、16f付きチェンバロを製作する製作家が出て来ました。アメリカのKヒル氏は十数台ものHassコピーを製作したとの事ですし、日本でも高橋辰郎氏が3段鍵盤、長さ310cmもの巨大なHassコピーを製作されました。パリのAサイディ氏作のHassコピーでAシュタイアー氏が積極的に録音を開始しているのも最近大きな話題になりました。ドイツの製作家Mクラマー氏の製作した16fチェンバロもヨーロッパ各地で人気を呼び20台近くも製作した人気モデルとなっているとの事でして、その中の1台がついに2008年にいわきのホールからの注文で日本に上陸した次第です。
「Matthias KRAMER作の16fチェンバロの特徴」
このチェンバロは16f+8f+8f+4fと4列の弦が張られています。響板は16f用と8・8・4f用の2段構造になっております。また弦も複雑な多重構造でして、上から16f Back8f Front8f 4f と4層となっており、8f2列の高さが違うのもユニークな構造です。(Back8fのナットにFront8fの弦が貫通する穴がある)Front8fにはバフストップが装着されていますが、スペースが無いため複雑な構造になっております。
16fのジャックはOFFの際は鍵盤から外れるようになっており、ONの時のみ鍵盤に乗る構造です。これにより通常は普通の2段鍵盤チェンバロと同じ8+8+4fの3組のジャックが上下するだけとなりタッチが重くならないように工夫してあります。鍵盤部両脇のレバーを同時に操作する事で16fのON/OFFをするようになっておりますがこれはもしかするとクラマー氏のオリジナルの設計かもしれません。


ジャックのツメはデルリンを使用、日本人には少々重いタッチで最初調整されておりました。腕力も体格も優る欧米人にはそれ程重くな感じないのかもしれませんが、日本人には(特に女性には)重すぎるタッチでしたので、数年がかりで徐々にツメやジャック、鍵盤の調整を日本人向けに修正しておりまして、最近ほぼ日本での標準的なタッチに仕上げる事が出来ました。
2008年のホールオープン以来、西山まりえ、上尾直毅、崎川晶子、辰巳美納子、山名敏之、エンリコバイアーノ(曽根麻矢子とDuo演奏)、など多くの演奏家が福島県いわきでのコンサートで16fチェンバロを演奏していただきました。
2011年の東北大震災ではいわき市も大きな被害を被りましたが、幸いホールの被害も少なくチェンバロは無傷でした。しかし震災後はコンサートの開催が縮小してしまい、16fチェンバロの出番が激減してしまったのは非常に残念であります。
「武久源造氏の挑戦」
今年は12月にいわきアリオスで武久源造氏の演奏で16fチェンバロを使いバッハのチェンバロ協奏曲を含むコンサートの開催が決定いたしました。
(コンサートの明細はまもなくいわきアリオスから発表される予定です)
武久氏もいわきの16fチェンバロには興味を持たれていたとの事で早くからわざわざいわきまで足を運ばれて楽器に触れ、色々な可能性を模索されておられました。ちょうど最近スエーデンで同じクラマー氏作の16fチェンバロを弾かれたところだとの事で、今回の公演にあたりこのユニークな16fチェンバロの本来の魅力を引き出すような調整を再検討しコンサートに臨みたいとの意向を受けまして、2日間に渡り演奏家を交えて楽器を弾きながら色々な調整法を試す機会を作りました。スエーデンの楽器も納入後に演奏家が色々検討の末調整を繰り返し相当の改善が出来たとの事でその情報も貴重でありました。
まず奏者からの希望としましては、巨大なボディの楽器をフルに鳴らせるだけの強靭な8fの音色が欲しいとの事で、ツメを交換しパワフルな8fの音色に変更いたしました。通常の2段鍵盤チェンバロよりも重いタッチとなりましたが音色を優先したいのでそれでOKとの事。たしかにモダンチェンバロの相当重いタッチでも当時の演奏家は弾けていたのですから奏法を工夫すれば4列フルカプラーでも何とか演奏は出来るかと思いました。しかし最初から複雑な構造のアクションで4列の音がきれいに並び、かつタッチも重くなり過ぎないように調整する事は至難の技ではありまして現在も調整を続けております。
しかし16fチェンバロの巨大なボディから導き出される強靭なチェンバロの音色は、今までの楽器とは比較にならない程の凄い音量と表現力でして、この楽器で演奏すると我々が全く知らなかった新しいバッハの世界が垣間見えて来るのではと期待で胸を膨らませている次第です。もし、かのバッハチェンバロのような16f付きの楽器をバッハが愛用していたとしたらこのような演奏だったのでは・・・というような音が再現出来る訳ですし。
東京からいわきまでは電車や直行バスでは意外に近くて便利ですので、12月の武久氏のコンサート、日本で珍しい16fヒストリカルチェンバロの音色を是非お聴きにいわきまでお越しいただければありがたいです。
